動物には「自己保存」と「種の保存」というふたつの本能があります。
自己保存は、食べ物がなくなると移動をして、体を維持する行動をとること。
種の保存は、相手を探して自分の子ども、子孫を残すこと。
しかし、本能はこのふたつだけではありません。
三つ目の本能を一度でも知ってしまうと、抵抗できません。
なぜならば、本能として組み込まれているからです。
人間だけ組み込まれている本能、それは「喜ばれると嬉しい」ということ。
なぜ人間は、この三つ目の本能をもらったのでしょうか。
神様は、ただ喜ばれると嬉しいという概念だけの存在で、種の保存にも、自己保存にもまったく興味を持っていません。
そのエネルギーを、人である生物にプラスして、「喜ばれると嬉しい」という概念を上乗せしました。
その上乗せされた存在を「人間」と呼びます。
動物と神とのあいだに存在するのが、私たち人間なのです。
人間にとっては、「自分の存在が喜ばれる」ことが、心から嬉しいと思えることです。
ただし、「これを人にやってあげたら、きっと嬉しいと思われるだろう」と考えているものは、空振りすることもあります。
人に喜ばれることを実践しても、その中で本当に喜ばれることは、50パーセントくらいです。
一年経ち、やっと70パーセントくらいになります。
では、間違いなく喜ばれるのはなんでしょう。
それは「頼まれごと」をすること。
喜ばれる存在とは、「いかに頼まれやすい人になるか」ということです。
基本的に、できない頼まれごとは来ません。
引き受けたからには「いい仕事をしよう」などと気負わずに、そのときの力で「良い加減」で、ニコニコとやっていけばいいのです。
頼まれたときに、自分ではできないんじゃないかと勝手に判断して断ることを「傲慢」といいます。
しかし、自分の中に「できないことでもなんでも引き受ける」という気持ちがあると、できないことまで持ち込み、行き詰るかもしれません。
引き受けることにより自己嫌悪が大きくなる場合や、物理的に不可能な場合は断ってもいい。
「頼まれごとのない人はどうするのですか」と聞く人がいます。
頼まれない人は、頼みにくい顔をしています。
眉間にしわを寄せ、口はへの字口になっている。
さらに、愚痴や文句ばかり言い、眉間にしわを寄せていると、誰も頼んではくれません。
口角が上がっていて、にこやかな顔・姿・形をして、嬉しい楽しいとにっこり笑っていると頼まれやすくなり、
「喜ばれる存在」として、ひとつ実践できたことになるのではないでしょうか。 小林正観