「頼まれごとの人生」という話がある。
自分の夢や目標を立て、それに向かって進んでいく、という生き方とは、まったく違う生き方だ。
人から頼まれたことをニッコリ笑って淡々と引き受けていく、という人生のことを言う。
頼まれごとの人生は、自分がしゃにむに目標に向かって頑張るという「努力型」の人生ではない。
力を抜いて「頼まれたこと」を淡々とやっていくという、気張らない、格好をつけない、という自然体の生き方だ。
頼まれごとをやっていくと、自分でも思ってもみなかった展開が始まる。
不思議なご縁で誰かとつながったり、頼まれたことがきっかけで、他のことを頼まれたりと、どんどん場面が変化し、人間関係もチャンスも広がる。
「頼まれごとの人生」というと、いかにも消極的にみえる。
自らの目標を高く掲げ、理想に向かって進んで行くほうが如何にも積極的で、勇敢な感じがするからだ。
しかし、人は「頼まれごと」に限らず、大きな制約の中で生きている。
サッカーや野球などのスポーツにしても、ルールという制約が決まっていて、その中での勝負をすることになっている。
それは、当たり前のことで、それが制約や決まりがなかったら、どんなスポーツやゲームであっても、スタートしてほんの数分のうちに大混乱に陥り、ケンカだって始まるかもしれないからだ。
目標は、ただ、自分で立てた目標というだけで、最初は何の制約もないようにみえるだけ。
目標を立ててから後は、様々な制約や決まりに縛られる。
頼まれごとは、最初から制約があるだけで、あとは同じこと。
つまり、ランダムに繰り出される「頼まれごと」を引き受けることは、とてもスリリングで、ゲームのし甲斐があるということだ。
そして、その制約の中に楽しみや喜びを見つけていく。
そのゲームのすべてのスタートは「引き受ける」という、「イエス」を言うことから始まる。
否定からは何も生まれないが、肯定からは何かが生まれる。
なぜなら、肯定的になったときだけ、人はビジョナブル(理想を追い求められる)になり、冒険的になれるからだ。
だからこそ、「頼まれごと」を引き受けることは、創造的でビジョナブルで、冒険的な行為なのだ。
そのスタートは、まず「イエス」と言うこと。