『渋沢27歳のとき、徳川昭武(あきたけ・慶喜の弟)に従い、パリ万博使節団の一員としてフランスへ行く機会を得たのです。
途中、上海の地では、アヘン戦争後、西洋列強に支配され、やりたいようにやられてしまっている国の姿を目の当たりにします。
香港に立ち寄れば、そこは当時すでに英国領。
ヨーロッパ各国を巡回することで、
「これからは商人の世の中が来る」
「国が商売を後押しする」
「経済を軽く見ているうちは近代国家になれない」
と開眼していくのです。
今日残されているエピソードを知れば知るほど、渋沢の「感動癖」というか「感激癖」とでも呼ぶべき特性を見ることができます。
いくら世界情勢をその目で見ても、ベルギー国王の話を聞いても、感動も感激もしない人はいます。
パリ使節団は総勢29名いましたが、渋沢ほど感動し、感激した人はいなかったのではないでしょうか。
渋沢は28歳で帰国しますが、この年こそ1868年。
明治元年にあたります。
世界の最先端をその目で見てきた渋沢は、29歳のとき新政府に仕え、世界を見てきていますから、日本に帰ってくると「あれもダメ、これもダメ」「未だにこんなことをやっているのか」と問題をあっちこっちで発見します。
それを、いろんな担当者のところに出向き、「もっとこうしなければダメです!」と上申しまくるわけです。
しかし、状況は大転換期のてんやわんやですから「それなら君がやれ!」とばかりに、言い出しっぺがどんどん担当者になってしまいます。
とはいえ、これは非常に健全な状態とも言えます。
企業であれ、国であれ、大きな変革が必要なときの「正しいあり方」ではないでしょうか。
古くからの重鎮がいつまでも居座って、現場レベルに立場も権限も与えられないようでは、改革は進みません。
今も昔もそれは同じ。
こうした状況だったからこそ、渋沢は目の回る忙しさのなかで次々と制度を刷新し、政府内で存在感を発揮していきます。
実際、渋沢は29歳で新政府に仕え、さまざまな制度改革や制度作りに携わり、32歳のときには大蔵少輔(しょうゆう)事務取扱という「大臣の一歩手前」という役職にまで出世しています。
30代前半の若者が「新しい国の形」を作っていったのです。
現代では信じられない若さですが、たとえば、ペリーが来航したときの江戸幕府の老中は阿部正弘という人物。
彼が老中になったのはなんと25歳のときです。
老中と言えば、総理大臣のような立場ですから、かつての日本にとって、若い人が国の中枢を担うのは決してめずらしいことではなかったということです。』
当時、29人もの人が、海外使節団に参加していながら、それを実践に移した人は渋沢栄一だけだったという。
同じものを見て、同じ経験をしたとしても、それに感激、感動する人と、何も感じない人はいる。
しかも渋沢は、感激しただけでなく、それらを次々と実践し、改革していった行動の人だ。