2021.01.14
『若者や子供は、新しいものに目を輝かせる。
「面白い」というよりも、「可能性」のようなものに惹かれているのかもしれない。
つまり、「面白そうだ」という感覚である。
面白いかどうかは、試してみないとわからない。
だから「試してみたい」との欲求である。
子供が、なにを見ても、「やらせて」とせがむのを、大人は知っている。
逆に、大人になるほど、手を出してみても、自分の得にならない、という悟りを開いてしまうのだろう。
子供は「無知」であるから、知らないことが周囲に沢山ある。
それらを知ることが、「面白い」のだ。
おそらく、知識を得ることで自身が有利になれるとの「予感」があるためだろう。
知らないよりも知ることは有利だ。
他者との競争にも勝てるし、自身の将来の可能性を広げるだろう。
つまり、好奇心とは自分が「成長」するイメージを伴うものである。
この自身の「成長」が「面白い」と感じられるのは、躰を鍛えたり、技を磨くための練習が「面白い」ことにもつながる。
いずれ得られる満足を予感させる「面白さ」といえるものだ。』
他には「意外性」の「面白さ」があるという。
これは知性によるものだ。
また、「突飛」の「面白さ」や、「楽しい」という「面白さ」、「ほのぼの」という「面白さ」、「研究」という「面白さ」、「アウトプット」の「面白さ」、等々がある。
若いときから自分なりの「面白い」ものがない人は、歳を重ねたときは悲惨だ。
あったとしても、孫と遊ぶのが楽しい(面白い)という人は、孫が大きくなったらそれは消滅する。
だから、一人で楽しめるものがなければいけない。
それを安岡正篤師はこう語っている。
清末の名宰相、曾国藩(そうこくはん)の言葉に四耐がある。
「耐冷、耐苦、耐煩、耐閑」の四つの耐であります。
その中の、「閑に耐える」ということは、なんでもないことのようで案外できない。
人間は昔から暇をもてあますなどと言うが、あまり学芸のない人などは、特にこの閑に弱い。
しかし、いろいろと精神生活が豊富になると、人間は逆に閑というものは非常に嬉しくなる。
そして、閑に耐えれられるようになるには、よほど人物の修行を要します。(酔古堂剣掃を読む / 致知出版)
学芸とは、何かの研究だったり、お茶とかお花という「道」の世界があるが、基本的には読書だ。
「読書」は、すればするほど、精神生活が豊かになる。