2021.01.05
曹洞宗の尼僧、愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の言葉より…
生涯を愛の教育にかけられた東井義雄先生から、こんなお話を聞きました。
夜遅くに電話が入りました。
こんな夜中に誰が電話をくれたかと、受話器をとってみると、男の方が切羽詰まった声で、「世の中の人がみんな私を見捨てた。
裏切った。生きてゆく勇気がなくなったから、今から首をつって死のうと思う。
けれど、一つだけ気になることがある。南無阿弥陀仏と唱えて死んだら救ってもらえるか」というのです。
東井先生はおっしゃいました。
「待ってください。あなたの気まぐれな南無阿弥陀仏ぐらいで救われるもんですか。
そんなことより、あなたはまわり中が見捨てた、裏切ったというけれど、あなた自身が自分を裏切り、見捨てて死のうとしているじゃないか。
その間も、あなたを見捨てずに、呼びかけ通しに呼びかけ、働き通しに働きかけていてくださる、その方のお声が聞こえないか」と。
「そんな声、どこにも聞こえやしない」という電話の主に対して、東井先生はさらにおっしゃいました。
「眠りこけている間も、あなたの心臓が働いているでしょう。
死のうとしているときも、あなたの呼吸が出入りしているでしょう。
死なせてなるものか、頑張って生きてくれよとあなたの心臓を働かせ、あなたの呼吸を出入りさせてくれている。
その働きを仏さまというのです。そのほかのどこに仏があると思うのですか」
「勘違いしていたようだな」とつぶやくようにいって、電話の主は電話を切りました。
眠りこけている間も、自殺しようとしているときも、腹を立てているときも、笑いころげているときも、いついかなるときも私を生かしつづけてくださっている。
その働きを仏と呼びます。
ときに阿弥陀如来とお呼びしたり、ビルシャナ仏とお呼びしたり、観音さまとお呼びしたり、
限りないお働きの、いろいろの角度から違った名前でお呼びするけれど、たった一つの、天地いっぱいのお働きを擬人化して名をつけたまでのことです。
気づく、気づかないにかかわらず、そのお働きのどまん中に、人間ばかりではない、すべてのものがいだかれ、その働きをいただいて生老病死しているのです。
民芸運動をされた柳宗悦(やなぎむねよし)さんの言葉に「ドコトテ ミ手ノ マナカナル」という言葉があります。
いつ、どこにあっても、仏の御手のどまん中での起き臥しであることを忘れてはなりません。
《「私のために、太陽が照り、雨が降る」気づく、気づかないにかかわらず、天地いっぱいのお働きがあなたを生かしつづけています。》
『泥があるから、花は咲く』幻冬舎