「運」には、身分証明書がない。
これがあなたにとっての「運」ですよ、と誰も教えてくれないし、証明してくれるものは何もない。
だからこそ、「運」が来ていることを見逃(みのが)してしまう人が多い。
たとえば、知り合いの会社や取引先などから、
「うちの会社にこないか」
と誘われたとしても、その多くは、
「じつは、こんなこと言われちゃってさ」
と友人やカミさんに冗談で話すぐらいというケースがほとんどだ。
誘ったほうも、ヘッドハンティングなどというおおげさなことではなく、たんなるオベンチャラで口にしたのかもしれない。
だが、もしかしたら、それが「運」かもしれないのだ。
相手の言うことを真に受けて、思い切って転職したとたんに、思いがけなく伸びるという可能性だってある。
違う人生が開けることもある。
自分の意思とは関係ないところで起こる出来事は、何か理由があると考えたほうがいいのだ。
電車の中で、大学時代の同級生にパッタリ出会ったというのも、それなりの理由があることだろう。
実家のおばあちゃんの法事に行ったら、遠い遠い親戚にテレビで見かける著名人がいた、ということだってある。
その席で、たまたま言葉を交わしたというのも、何かの「運」に違いない。
ふだんの生活に何か小さな変化が起こったとき、それは「運」がある知らせなのだ。
ある日、街角で知らないおばあちゃんの手を引いて横断歩道を渡ったとする。
じつは、それが会社の社長のお母さんで、それがきっかけで偉くなる…なんていう「運」は、ドラマの世界にしか有り得ない。
どんなにツイていると言っても、そんなツキは期待するだけムダである。
そんなことより、もっと何気ない変化、いつもとは違う自分を発見するときが、すべて「運」のはじまりであり、「運」の女神の微笑みだと知っておくことである。
「運」は、それと気づかれずに、僕らの周りに忍び寄っている。
企画の実現のチャンスもまた、目の前にあるのかもしれない。
それを見逃してしまうよりは、むしろ過敏になり過ぎるくらい注意力を持っているほうがいいのだ。
「運」には身分証明書もなく、自己紹介もない。
その「運」をつかむには、状況の変化を読みとる繊細な感性が必要なのである。