2020.10.05
中国・唐の名君の誉れ高い太宗にこんな話が伝えられています。
あるとき、太宗が洛陽宮(らくようきゅう)を修復しようといい出しました。
皇帝が何か事業をしようとすると、多くの民衆がかり出される。
たまたま農繁期であったのでしょう。
今かり出されたら農民は困ります。
民衆を困らせることは皇帝にとってもよいことではない。
そこで諫議(かんぎ)という皇帝のご意見番の張玄素(ちょうげんそ)が「今はそのときではない」と真心を傾けて進言しました。
太宗はこの忠言を是として受け入れ、宮殿の修復をとりやめた。
功臣の魏徴(ぎちょう)が「張、公事を論ずるに廻天の力あり」と讃嘆(さんたん)の言葉を惜しまなかったといいます。
道元禅師はこの魏徴の言葉と共に、さらに別のところで「明主に非(あら)ざるよりは忠言を容(い)るることなし」の一句を添えておられます。
とかく後輩とか弟子や子供に非を指摘されると、先輩とか師匠や親の面子(めんつ)にかかわるような気がして、素直に受け入れられないものです。
大切なことは、そのことが道理にかなっているか否かなのであり、道理にかなったことならば、相手が誰であろうとそれにしたがう。
それがあるべき姿でしょう。
しかしそれができるのは明君であればこそ、というのです。