2020.09.22
『眠狂四郎』を書いた、あの柴田先生が、戦争中、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を輸送船で渡ろうとしていたとき、
アメリカの潜水艦にやられて、仲間は皆死んで柴田先生だけ生き残ったらしいんです。
そこでイラストレーターの横尾忠則さんが、ある時、「あなたは物書きでしょ。第二次大戦中にバシー海峡で船が沈められて、皆、死んでいったのに、あなたは助かった。
そんな貴重な体験をしていながら、物書きのくせになぜそのことを書かないんですか」と、柴田先生に聞いた。
そうしたら、柴田先生が言ったそうです。
「わしは漂流した時のことを、よく覚えていないんだ」と。
それで、横尾さんが、「そんなばかなことはないでしょ。漂流した時に『助かりたい』とか、いろいろなことを考えたでしょ」と言い返した。
その時に柴田先生が言った言葉がね、「いや、そうではない。わしはあの時、何も考えなかった」と、「考えたやつは皆死んでいったんだよ」と言った。
つまり、「頭は力ではない」んです。
だから、さっきの偏差値の話ですが、偏差値を磨けば磨くほど、人間の生きる力は弱くなる、それは私たちは十九年間、山にこもって実感したことです。
頭を使わないから元気が出るんです。
だから「下手な考え、休むに似たり」ですよ。
われわれは逆をやっています。
頭を磨き過ぎて生きる力を失ってきた。
理屈っぽくなった時は生きる力がなくなっています。
まず、理屈っぽくなると人間は行動しません。
頭を使う時は行動しない。
もともと頭というのは行動のブレーキの役目をするものなんです。
だから、石を投げるときに「この石はどこに落ちるんだろう」と考えたら、石は投げられませんよ。
「石はどこに落ちるかわからない」と思った瞬間に行動はできる。
つまり、頭は迷いをつくる場なんですよ。
だから、「感動」という字を見るとわかります。
感じさせるから動いているわけです。
考えさせたら動かない。
感じるから動くんです。
だから感動が行動の起爆剤なんですよ。
感動できない人間は行動もできないし、気骨も生まれてこない。
道元は「仏の道とは行動することだ」といっている。
「行」しかないとね。
感動と感性は「エモーション」という英語になるわけです。
ところが、エモーションというのは、もともとエモーチュといラテン語からきているんです。
で、ラテン語で「エ」というのは「外」のことです。
「モーチーオ」は実は「動き出す」ということです。
だから、「外に動き出せるもの」が「感動」なんです。
情が豊かでないと人間は行動しないと、言葉自身が教えてくれているんですよ。
『随処に主となる―自分の人生を自分が主人公として生きる (活学叢書)』致知出版社から