2020.07.16
「議論に勝つ最善の方法は、この世にただ一つしかないという結論に達しました。
その方法とは…議論を避けることだった。
毒ヘビや地震を避けるように議論を避けるのだ」
とカーネギーは言っています。
この教訓をカーネギーはあるパーティーに出席したさい、学んだのです。
パーティーでカーネギーはある男性と、引用句について、出典が聖書かシェイクスピアかで議論になりました。
カーネギーは確信があったので、出典がシェイクスピアであると主張したのですが、相手は「聖書の言葉だ。間違いない」とたいへんな剣幕で詰め寄ります。
するとその場に居合わせたカーネギーの友人が「確かに聖書です」と相手の肩を持つのです。
友人はシェイクスピアの研究家でもあったので、カーネギーはひじょうに驚いてしまいます。
パーティーの帰り道、カーネギーが友人に確かめると、友人は答えます。
「もちろん出典はシェイクスピアさ。でもめでたいパーティーの席でなぜ人の間違いを証明しなければならないんだ。証明すれば相手に好かれるのかね?」
カーネギーは議論をしても何の意味もないことを悟るのです。
どんなに議論をしても、相手の考えを変えられないのであれば、議論はたんなる自己満足に終わってしまいます。
その上、議論をすることで、友だちを失ったり、上司から嫌われたり、同僚から反感を持たれてしまうのなら、議論する意味はまったくありません。
私には大学時代に徹底的な議論をして、友だちを1人ずつ失っていったという悲しい経験があります。
当時の私は完膚(かんぷ)なきまでに相手を論破することを説得だと考え、誠実さと勘違いしていたのです。
その結果、友だちがどんどんいなくなっていったという反省を踏まえ、みなさんには議論をすることがまったく生産的でないとわかっていただきたいと思います。
もちろん企画会議などで、A案がいいか、B案がいいか、意見を言うのはかまいません。
ここで言う“避けるべき議論”とは相手を徹底的にやりこめるような議論のことです。
どちらが勝って、どちらかが負けてしまう議論だと、負けた方は恨みが残りますし、勝ったほうも大して得がありません。
そもそも人はほとんど変わらないのですから、たとえ朝まで議論して、相手の間違いを正しても、人は変わりません。
そこは自分の正しさを主張するのではなく、人間関係のほうを重視して、割り切る必要があるのではないでしょうか。