仏教では「聴く」ことの能力だけで六道(ろくどう)を超えるんだと規定しています。
六道とはつまり地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間(じんかん)・天ですけど、更にその上がありまして、どんなに悪い癖があろうと「聴く」ことに長(た)けていれば「声聞(しょうもん)」という位になります。
また聞くことに限らず、他の五感からの刺激で物事の本質を覚(さと)るのが「縁覚(えんがく)」ですね。
更に「菩薩(ぼさつ)」「仏(ぶつ)」を合わせて「十界(じつかい)」と云うんです。
ともかく六道を超える状態は、「聴く」ことによってもたらされるわけですね。
「聴く」ことがそんなに難しいだろうか、と思われるかもしれません。
しかし普段私たちは、「ありのまま」に物を見たり聞いたりなんてしていないんです。
音の大きさを表す「ホーン」という単位がありますが、ホーン数の大きい音から聞いているかというとそんなことはない。
聴きたいと思う音を選んで聞いているわけです。
目のほうも同じですね。
見たい物だけを見てますから、同じ場面で見ても人の記憶はみな違ってきます。
別な言い方をすれば、人は記憶するために大部分を切り捨てているのかもしれないですね。
全体というのは決して記憶されませんから。
ですから何かに集中していれば大きな音でも気にならないということが起こってきます。
例えば耳に入ってきた音や言葉は、素直に聞いているのかというと、どうもこれがそうでもないんですね。
つまり人は、ヘタすると聞いたことに対する自分の頭の中の批評を聴いていたりする。
すぐに言い返したり、話し終えるまえに「解った」なんて言ってみたり。
あるいは勝手に「要するに」なんてまとめようとしたり、ですね。
聴くという時間も惜しんで自己主張しているフシがあります。
本人も気づかずに言っていることが多いとは思いますが、私たちはけっこう「もう聴きません」という態度をとってますよね。
「誰それさんも同じこと言っていた」
「そんなこと、みんな知ってるよ」
「いつも同じこと言うね」
「つまり、〇〇ということね」
「君は〇〇な人だね」
こんなのは皆そうですね。
「私は聴かれていない」という気分を相手にもたらします。
あと無視、というのもありますね。
完全な沈黙で返す。
こうした態度で、人は次第に寂しさとかイライラとか、慢性的な怒りさえ感じるようになります。
ひとりよがりも、聴かれていないという体験の積み重ねで起きてくると思いますね。
そうすると人はだんだん予防するようになる。
「結局」とか「どうせ」とか「やっぱり」なんていう言葉を、自分で頻繁に言うようになるんですね。