わたしたちがこの世に生きているのは、仏が書かれたシナリオの中で、それぞれがいろんな配役をもらって、その役を演じているのです。
その“演じる”という言葉は英語で言えば、“プレイ (play)”で、それは“遊び”なんです。
だから、われわれは 仏のシナリオの中でプレイしているのです。
それが人生です。
人生が無意味だというのは、わたしたちにはシナリオの全体がわからないから(なにせ 何億年にわたるシナリオです)、自分が演じている役の意味がわからないということなんです。
しかし、そんな「意味」を考える必要はありません。
第一、考えたってわからないのです。
仏が書かれた厖大(ぼうだい)なシナリオですから、わかるはずがありません。
わたしたちは 仏に頼まれてその役を演じているのです。
仏が無意味な配役をこしらえておられるはずがないから、仏のお考えでは意味があるのです。
わたしたちはそれを信じて、ひたすら頼まれた配役を演ずればよいのです。
プレイするといいのです。
遊びをすればいいのです。
あなたが大企業の社長の配役をもらったのであれば、それをプレイしてください。
あなたが引きこもりの人間の役を頼まれたら、その引きこもり役を演じてください。
病気になってほしいと頼まれたら、病人を遊べばよいのです。
その配役の価値の大小は、われわれにはわかりません。
世間の物差しで見ると、〈いい役だなあ......〉と羨ましくなるような配役もありますが、もう少しシナリオが進むと、それがとんでもない悪役になるかもしれません。
ただし、悪役が悪いというのではありませんよ。
悪役がなければ、芝居はおもしろくありませんね。
悪役を悪役として立派に演じるのが名優です。
ともかく、われわれとしては、仏の物差しによるとすべての配役が有意義ですばらしいのだと信じましょう。
というより、配役の価値の大小を考えないことです。
そして、頼まれた役をしっかりと演じます。
そうすると、この娑婆世界での出演が終って、仏の世界であるお浄土に帰ったとき、阿弥陀仏が、
「ありがとう。あなたがしっかりとあの配役をやってくれたおかげで、わたしの演劇がすばらしいものになったよ。あなたには世間の物差しでは損な役割、いやな役を与えてしまったが、にもかかわらずあなたはちゃんとそれをやってくれた。お礼を言いますよ」
と、わたしたちをねぎらってくれるでしょう。
この世の中でいい配役をもらった人より も、損な役割をもらった人のほうが、きっと阿弥陀仏の感謝の言葉を多くもらえるでしょう。
きっとイエスが、「貧しい人、泣ける者は幸いである」と言ったのは、そういう意味もあるはずです。
だからわたしたちは、世間の物差しをちょっと横に置いて、仏のシナリオの中でもらった配役をプレイしているのだと思いましょう。
人生は、娑婆世界に遊んでいることだと信じましょう。
そう思って生きれば、もっと楽に生きられるはずです。