社長のつぶやき

「無常」

2021.11.04

なぜ若くして亡くなってしまう人がいるのでしょうか。

良い行いをしたのに、あるいは何の穢(けが)れも知らない子どもであっても、なぜわずかしか生きられずに、死んでしまう人がいるのでしょうか。

その疑問に答えるのはひじょうに難しいのですが、仏教では人間のいのちを「一代限り」とは見ていません。

なぜ若くして亡くなってしまうのかという疑問を持つのは、自分の一生を自分一代と見てしまうからではないでしょうか。

仏教では、いのちはずっと流れていくものという、大きな流れで見ています。

一部分だけ区切ってみると、あんなにいい人なのに、こんな目にあってということがあるかもしれません。

でも長い目で見れば、早く亡くなろうと、長生きしようと、みんな同じではないかと思います。

そして自分が良いことをすれば、その良い種は必ず先に行って芽を出すだろうと思います。

たとえば幼い子を残して、がんで亡くなった30代の女性にしても、その30数年だけを見れば、気の毒に思うかもしれません。

でももっと大きな目で見れば、その方がいたことが残された人たちの中にきっと素晴らしい種を残したのではないでしょうか。

松原泰道先生も、実のお母さまを3歳の時に亡くされています。

きっとお母さまはまだ30代そこそこだったのでしょう。

その30年だけを見れば、なんとかわいそうな人だと思うでしょう。

でももう少し長い尺度で見ると、松原先生はお母さまの思いを受け継いで、102歳まで長生きされましたから、お母さまの思いは松原先生の中にずっと生き続けたといえるのです。

尺度を変えて、もう少し長い尺度で見れば、30歳で亡くなったお母さんの人生も決して無駄なものでも、短いものでもなかったことがわかります。

今の人たちは物事を「短くしか見ない」ことが私は問題だと思います。

自分のいのちを自分一代のものと区切って見てしまうので、「自分のいのちだから好き勝手に生きればいい」という自分勝手な発想も生まれてしまいます。

でもそれはきわめて部分的な見方であって、いのちというものは自分が生まれる前から続いていて、死んだあともずーっと流れていくものなのです。

だとすれば、今良いことをやっておけば、すぐには芽が出ないかもしれませんが、次の世代、またその次の世代で実を結ぶかもしれません。

昔は年齢を数え年で数えたので、「生まれる前からいのちは宿っていた」という発想がごく自然にでてきました。

今はそれがなくなったので、よけいに自分のいのちは一代限りという思いが強くなってしまうのでしょう。

でも自分一代だと、結局、自分が死んだらそれで終わりです。

それではあまりに寂しいではありませんか。

ずっと流れていくもの、受け継がれていくものがあると見たほうが、今の一生をより意義深く生きられるのではないでしょうか。

落語に『松山鏡』という面白い話があります。

昔、鏡がない村に親孝行の息子が住んでいました。

父親は亡くなりますが、孝行を尽くしたことがお殿さまの耳に入り、褒美をもらえることになりました。

「何を望むか」とお殿さまから聞かれた孝行息子は「死んだ親に会わせてほしい」と言うのです。

お殿さまは徳のある賢い方でしたから、桐箱に入れた鏡をあげました。

すると鏡がない村に住んでいた息子は鏡を見て、「おやじがいる」と喜ぶのです。

親の面影を鏡に映った自分に見たのでしょう。

これは大変深い話です。

鏡を見ている「私」がいるということは、親のいのちがここに生きているという何よりの証です。

「無常」というと私たちは形があるものが滅びていくもの寂しいことととらえがちですが、それだけではありません。

常に生じては滅していく、そのくり返しが、「無常」です。