レイ・クロックは、ただの一レストランにすぎなかったマクドナルドに注目し、チ ェーン店として世界中に広めて、全米一のフランチャイザーになった人物です。
クロックがこのチャンスを探り当てたのは、50歳を超えてからのことだった。
シカゴで生まれ育ち、高校を中退後、レコード店の経営者、第一次世界大戦時の救急車の運転手、ナイトクラブのピアニストと、さまざまな職を転々としました。
いくつかの仕事はうまくいかなかったが、リリー・カップ社という、紙製品を売る会社の営業マンに落ち着くと、頭角を現わしはじめる。
急成長中のファストフード店向けに紙コップを売り歩き、成績を伸ばしていったのです。
彼は生まれながらの営業マンでした。
第二次世界大戦中には、クロックはシカゴで、ミルクシェイク製造機をつくる小さ な会社を経営していました。
戦後になると、シェイクよりもソフトクリームが人気になり、クロックは市場の変化に対応する必要性を感じながら日々を過ごしていた。
そんなときのことである。
カリフォルニアにマクドナルドという超人気レストランがあると聞き、彼は自分の目で確かめに行きました。
クロックの機械は同時にいくつものミルクシェイクがつくれる「すぐれもの」だったが、それを生かせるような店がないことが悩みの種だった。
クロックはお客たちと談笑しながら店の繁盛ぶりを観察した。
店内は実に清潔でした。
また、食事どきにはかなり混雑していたにもかかわらず、 驚異的なスピードで調理されるため、店内の順番待ちの列が実にスムーズに流れてい たのにも感心しました。
「この店なら、自分のミルクシェイク製造機が役に立つ」と彼は確信するが、さらにそれ以上のアイデアも浮かぶ。
「店のスピーディな販売方式に、すっかり感銘を受けました」 と、クロックは後に語っています。
「泊まっていた安ホテルの部屋に戻ると、私は考えに考え抜きました。
これは、まったく新しいビジネスに挑戦する絶好のチャンスではないかと。
すると、全米各地に散らばるマクドナルド・レストランのイメージが頭に浮かんできたのです」
マクドナルドをはじめて見てから一週間後、クロックは店主のマクドナルド兄弟と交渉し、国内のフランチャイズ権を扱う代理人にさせてほしいと、大胆に売り込んだ。
迷惑がられても、ここが人生の勝負どころだとばかり、しつこく食い下がった。
そして、最初は難色を示した兄弟を口説き落とし、マクドナルドのチェーン店を出しはじめると、たちまち大成功を収めたのである。
自分が描いたイメージは現実のものになったのです。
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