2021.09.30
『「人の痛みのわかる子どもになってほしい」という言葉が、ひんぱんに聞かれる ようになったのも、
自分中心に生きて、他人の痛みに無関心な人々、または、他 人を痛めつけ、苦しめて面白がる、心ない人々がふえている世相を反映しているといっていいでしょう。
では、どうしたら他人の心の痛みがわかる人間になれるのでしょうか。
答えは、自分が痛みを経験し、そこから思いやりの心を育てることにあります。
「我が身をつねって、人の痛さを知れ」と母は口癖のようにいっていたものです。
「つ ねってはいけません」というお説教ではなく、「人をつねるなら、まず自分でその痛みを味わった上でしかしてはならない」ということだったのでしょう。
ですから、私たちの心が傷つけられ、痛めつけられる機会も、満更捨てたものではないのです。
そのおかげで、私たちは他人の痛みを思いやることができる人間に、なろうと思えばなれるのですから。』
我々は、誰かの心ないひとことで、傷ついたり、心がザワザワして眠れなかったり、不安になったり、嫌な気持ちになったりする。
それを「気にしないこと」、もっと言うなら「気にならないこと」が一番いいのだが、ネガティブな心を引きずってしまうことは多い。
しかし、その傷つけられたり、痛めつけられた経験があるからこそ、他人の痛みを思いやることができる。
逆に、何をされても何も感じない、傷つかないという、鈍感で無神経な人だとしたらどうだろう。
相手のちょっとした変化にも気づかない、気配りがない、気持ちがわからない、察しが悪い、真の危機に気づかない、等々の人だ。
すると、他人の痛みがわからない無神経な人となる。
我々に起こるすべての困難なことは、自分を高めてくれる神様からの大切なギフトだと思うなら、厳しいことも自分の糧にすることができる。
それは、乗り越えることができる人にしかやってこないからです。
「にもかかわらず」、笑顔で生きることができる人でありたい。