2021.08.31
修験道(しゅげんどう)について紹介しましょう。
「修験道」とは、山に入って厳しい行をすることで気づきを得る、日本古来の教えです。
「修験」とは「修行得験(とつけん)」「実修実験(じっしゅう)」の略語で、「身体を使って修める・験(しるし)をつかむ」という意味があります。
山岳信仰をベースに密教や道教、神道、陰陽道などを包括したもので、もともとは日本全国に広がっていました。
現存する行場は 山形の出羽三山だけでなく、奈良の大峯山、和歌山の熊野三山、福岡の英彦山(ひこさん)などいくつもあります。
もともと山伏は、「半僧(聖) 半俗」 と言われるように、修験道者としての「山の修行」と、生活者として生業をもって暮らす「里の行」の両方を行き来する存在が多かったようです。
現在も、神社・お寺に属する一部の修験者以外に、里の生業をもって行をする山伏が各地にいます。
修験者にとって「山」は神の棲む聖なる場所。
修行で山に入ることによって、擬死再生(ぎしさいせい・生まれ変わり)を果たすと考えられているのです。
羽黒山伏・大聖坊十三代目、星野文紘(ふみひろ)氏の言葉より...
山伏とは、『山』で『人」が『犬』になる、と書く。
一人で山に入り、 四つん這いになって走り回る。 それが、山伏のやることだ。
それ以上は、やってみなけりゃ わからない。
「山伏とは」『修験道とは」を、頭でわかって、なんになる?
そんなことを考えていても、結局は外側にある知識をあてにしているだけだろう。
山伏は、自然のなかに身をおいて、犬になる。
もしくは、赤ちゃんに戻るんだ。
赤ちゃんは、考えたりしない。
「感じる」ことの優等生。
みんな、生まれた時はそうだったんだよ。
それがさ、育っていくあいだにいろいろな知識が入って、 みんなと同じように良い子になって、 テストで〇をもらうのをがんばって。
どんどん、「感じる」は封印されていくんだよ。
「『感じる』ってなんですか?」と聞くなよ。
それを聞く時点で、「感じる」が 完全に封印されている証拠だよ。
山に入って修行して、感じたことを考える。
山伏が修行をとおして歩く道、「修験道」とはそういうものだ。
山伏修行の最中は、無言だ。
ただただ、黙って山のなかを歩くんだ。
一つだけ、言っていい言葉がある。
それは、「うけたもう」。
なにがあっても、『うけたもう」だ。
修験道は基本的に、「うけたもう」の精神だ。
そもそも、神仏習合だろ。
祝詞も唱えるし、 お経も真言も唱える。
山岳信仰に道教や仙人思想も入っているしね、すべてを取り込んでいくんだ。
「鬼』っているだろう。
一般的には悪者にされているけれど、 修験道では鬼も仲間だ。
鬼も取り込んで、神様にしちゃうんだ。
『うけたもう』ってね、 『委(ゆだ)ねる』ってことだよ。
そこにはさ、信頼があるんだ。 『うけたもう』の世界には非人間的なことは出てこない。
だから、『うけたもう』できるんだよ。
修験道はね、ゆるやかなんだ。
なんでも吸収しちゃう。
境界線は曖昧だよ。
もともとと日本って、 そういうところのある国だよ。
だから、それでいいんだ。