ある人からこんな質問をされました。
…落ち込んだり有頂天になったりして、自分ではどうにもならない。
コントロール ができない。
落ち込んだあとにはまた有頂天になり、有頂天になったあとにはまた落ち込みが待っている。
この気分の起伏というものをなんとかできないものだろうか…。
よくありそうな質問ではありますが、解決策はかなり簡単です。
落ち込んでしまうのは、自分が「大したものだ」と思っているのに、さほどの評価を得られなかったからです。
逆に有頂天になるのは、自分が「大したものだ」と思っているところに「大したものだ」「素晴らしい」という賞賛を浴びるからです。
どちらも同じ心の 状態がそういう心の起伏をつくっているということになります。
その心の状態とは、「自分が大したものである」「ちゃんとしたものである」と思うところから始まっています。
自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」と心を定めることができたら、人間はとても楽に生きることができます。
ちゃんとした人、いろんなことがきちんと全部できる人というのを、多分「正しい人」 と言うのだと思いますが、もともと人間はそんなに正しく生きるようにはできていないように思います。
不完全で不十分で未熟。
やることなすこと完全にはできず、ミスばかり。
そういうものの積み重ねの結果として人間があるのだと思います。
「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」と思うことができたら、非難されても否定的なことを言われても落ち込むことがなくなるでしょう。
実際に大したものじゃないのですから、「大したものじゃないね」と言われて「確かにそうです」と笑顔で答えられるわけです。
大したものじゃないところにもってきてほめら れたりしても、自分は「大したものじゃない」ということをはっきり自覚していれば、それによって舞い上がることもない。
つまり、落ち込むのも舞い上がる(有頂天になる)のも、すべて同じ心の状態から来ています。
それは自分が「大したものである」「ちゃんとしたものである」「なかなかのもの である」と思うところから来ていることにほかなりません。
自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」と思えることが、実は謙虚さということにつながっています。
すべてのことが周りの人々…目に見える4者(友人、知人、家族、自分の体)と、目に見えない4者(神、仏、守護霊、精霊)…の力によるものだということがはっきりとわかっていたら、
何かができても自分の力でできたわけではないということに気がつくわけです。
ですから、自分のことを「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」と思い定めることができれば、それが取りも直さず謙虚さということであり、同時に感謝の気持ちをいつも持っていることになります。
落ち込む人、同時に有頂天になっている人というのは、すべて「自分の力がなかなかのものである」と思っているところから来ているように思います。
もしかすると、その心は、 驕(おご)り、高ぶり、うぬぼれ、傲慢(きょうまん)というものに近いものかもしれません。
本当に謙虚になると、落ち込むことも有頂天になることもなくなるような気がします。
著書 『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?私がいちばん伝えたかった幸せ論』小林正観 より