「何によって人に憶えられたい」?
2021.01.19
ドラッカーはこう語っている。
『私が13歳のとき、宗教の先生が生徒一人ひとりに「何によって人に憶えられたいかね」と聞いた。
誰も答えられなかった。
先生は笑いながらこう言った。
「いま答えられるとは思わない。
でも、50歳になって答えられないと問題だよ。
人生を無駄に過ごしたことになるからね。」
今日でも私は「何によって人に憶えられたいか」を自らに問い続ける。
これは自らの成長を促す問いである。
なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けてくれるからである。』《非営利組織の経営》
著名人が亡くなったとき、死亡記事が新聞に出る。
その際、こんなエピソードがあったという。
『アルフレッド・ノーベルはノーベル賞を創設した人として有名だが、実はダイナマイトを発明した科学者であり発明家です。
1888年に兄が亡くなったとき、弟のノーベルと間違えて書かれた死亡記事が出ました。
そこには、「一瞬にして多くの人を殺害する方法を発明し、それによって富を築いた死の商人死す」とあった。
それを見て、ノーベルはその後の自分の生き方を改め、ノーベル賞をつくったという。
「何をもって人に憶えられたいか」は、人の一生において、重要なテーマです。
死の商人と言われるのか、ノーベル賞の創設者と言われるか。
人は、亡くなった後、この世に残していけるのは、「人に与えた思い出」だけしかない。
人が憶えていてくれた「思い出」だけが、残るのだ。
人に与えたものが、「不平不満」「愚痴」「泣き言」や、「悲しみ」「怒り」「憎しみ」だけだったとしたら、こんな寂しい人生はない。
何も大きいことをする必要はない。
人の心に、「温かで優しい気持ち」「しあわせ」「楽しい」「笑い」や、「感謝」の気持ちを少しでも残すことができたら、こんな嬉しい人生はない。
「何をもって人に憶えられたいのか」を今一度、深く考えてみたい。